韓国映画「タクシー運転手」がゴールデンウイーク向けに日本で公開され、重いテーマにもかかわらず、かなりの観客動員数をあげて、注目されている。
この映画については、昨年10月に発行した本誌129号で、韓国での大ヒットと同時に注目された奇妙な事実について、「文世光、光州事件、タブレット ―日本の学生運動、韓国の民主化運動と北朝鮮をつなぐ点と線―」というコラムで紹介している。
そういう経緯もあり、また、劇的な米朝会談、南北代表会談という時期とも重なったこともあって、DVD化を待たずに、実際に映画館に足を運んでみることにした。
平日の最終日であるにもかかわらず、ほぼ満席状態。この規模の映画としては「大ヒット」と言っていいかもしれない。字幕より早めに笑い声が上がったりしていたので、韓国あるいは北朝鮮系の観客も少なからずいたようだ。
映画は1981年5月戒厳令下の光州に潜入して、軍隊による市民虐殺を世界に報道したドイツ人ジャーナリストと、彼の光州潜入に協力したソウルの韓国人タクシー運転手の決死の行動を描いたドラマだ。
最初は金目当てだった、主人公の平凡なタクシー運転手が、光州に潜入して軍隊による苛烈な弾圧の様子を目撃。次第に使命感に目覚めていく姿が、光州の学生活動家やそれを支援する素朴な庶民との交流を絡めて描かれている。
名優。ソン・ガンホをはじめとする韓国俳優陣の演技もいい。何しろ最近の日本映画のようにしまりのないイケメン俳優は一人も出てこない。
それが映画に説得力と迫力を与えている。日本映画界はこの姿勢を見習うべきだろう。何しろ実話が基になっているだけに、感動が半端でない…。
(と、まあ、何の予備知識もなくこの映画を見ていればそういう素直な感想になったはずだが…。ただ終盤のタクシードライバーたちの英雄的行動と、ラストのカーアクションはちょっと余計。それまで比較的正攻法で押してきただけに、残念な印象を受ける。)
ところで 本誌がこの映画に注目したのは、韓国人ジャーナリストの崔碩栄氏がWEDGEというインターネットサイトに寄稿した、「韓国映画『タクシー運転手』の大ヒットで浮上した歴史論争」という記事だった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10624
これは現在もネット上で読めるので、詳細はそれを読んで欲しいが、そこで崔氏は、このタクシー運転手が、光州事件の6年前に起きた、文世光事件(朴大統領狙撃事件)にかかわっているのではないか?という疑惑について紹介している。
その疑惑を知ってこの映画を見ると、複雑な心境になる。事件の背景に謀略の気配を感じてしまうからだが、そのためか、気になったのは、主人公たちを救う軍人が登場するシーンだ。
ドイツ人ジャーナリストの手記を読んでいないため、それが事実だったのか、映画の創作なのかわからない。映画的創作だとするとあまりにもご都合主義であるため作品のレベルを下げることになってしまうだけに、謎めいたシーンなのだが、そのまま解釈すると、軍隊の中にまで学生シンパが浸透していたということになる。
今号の高井三郎氏の記事にも出ているが、北朝鮮の情報工作は恐るべきものがあり、かつて自衛隊の幹部候補生の中にも朝鮮戦争は韓国による北侵攻が原因であると信じていた者がいたという。それほど北の情報工作は成果を上げていたといえるだろう。
光州事件が北の謀略だという陰謀論はこれまで否定されてきた。しかし「タクシー運転手」と文世光事件がつながるなら、光州事件の北の関与についても新たな検証が必要になるのではないか?というのが崔碩栄氏のレポートのテーマでもある。
そういう視点と、軍人の中にまで及んだとみられる協力者の姿は(それが架空の存在であったにせよ)、映画の意図(民主化を応援する良心的軍人もいた)に反して、韓国は常に北の情報戦の仕掛けに翻弄されてきたという事実を改めて印象づけられてしまった。
朴大統領暗殺後の不安定な状況下で、北の情報工作に翻弄され、当時の軍部は冷静な判断力を失わされていたのかもしれないとも考えられる。(苛烈な弾圧を正当化する理由にはならないにせよ、それを発生させるのも情報工作の力なのだ。)
ちなみに、この映画は朴槿恵政権下では、お蔵入りしていたものだったともいわれている。
文在寅政権になって日の目を見た同様の映画がこのほかにもあるようだ。その意味で、現時点で、この映画を素朴に韓国民主化運動の象徴のようにとらえるのは、やや違和感があり、北の情報工作の成果の一つとして見てしまうのは偏見にとらわれすぎか?
しかし、数十年にわたる北の情報工作の実態が明らかにならないまま、表面的な和平交渉が進んでいくとすれば、この映画によって浮かび上がったさまざまな謎は永遠に明らかになることがないようにも思われる。